3回目?の発作
高校最後の修学旅行。
海外でした。
時差は12時間くらいの場所でした。
みんなで乗る飛行機もホテルも買い物も楽しくてどの場面でも舞い上がっていました。
確か4泊6日くらいだったかと思います。
バカな私は持って帰れないガス入りの高価なお面を買ったり、匂いのきついボディークリームを買ったりしてホテルで塗りあって写真撮りまくってゲラゲラ楽しく過ごしていました。
当然睡眠不足で疲労もありましたが全く気にも留めていませんでした。
何箇所か周り、バス移動し目的地に着いたとき友人の声がしました。
「先生!てんこが起きない!きてー!」
はっきり聞こえていました。
私は、周りに覗き混んでいる友達を払いのけクラスメイトがいるにも関わらず歩きだしバスから降りました。
意識はあります。
でもクラスメイトを押しのいて歩いていることに疑問を持ちながらも自分を止められませんでした。
そして外に出ていた友達がギョッとして
「てんこ、どうした?どこいくの?」
の言葉で正気に戻ってきた気がします。
その後は酷い頭痛でしたが、遊ぶことに夢中で手持ちのロキソニンを飲んでずっと笑顔で過ごしていました。
どこか不安感やイライラや恐怖感はありながらもなんとか過ごせました。
ケイレンもしてなく意識もあり、それが発作とは最近まで思っていませんでした。
でも、てんかんには色んな種類があり、意識のある発作もあると知り、部分発作の1つだったんだな、と認識しています。
その時の写真を見てみると明らかに顔色が悪く真っ白でした。
数年後、友人と話していても
「あの時は本当ビックリしたよー!何度起こしても起きなくて真っ白な顔してるから死んじゃったのかと思ったよ!起きてからも目もいっちゃってたよ!」
といっていました。
数年経っても話すほど印象的な光景だったんだと思います。
最近までその行動は病気と関係あるとはちっとも思っていませんでした。 寝ぼけていたのか?と思っていました。
今は、答え合わせをしていくような感覚で自分の発作履歴を照らし合わせていっています。
時差、睡眠不足、疲労、刺激臭。発作の要因は揃っています。
あの時の異常行動は『発作』でした。
化学教師の言葉
化学教師はとても変わっていました。
肝心の授業はそっちのけで授業の半分が一方的な雑談でした。
「肉は食べちゃいけない、加工肉のハムやウィンナーは合成肉が入っているから絶対に食べちゃいけない」
とよく言っていました。
偏った考えの持ち主でした。
風貌も変わっていてブラックジャックに出てくる『お茶の水博士』に似ていたので、私たちはお茶の水、と呼んでいました。もちろん生徒間のみで。
雑談が多い先生の話は面白いと感じる事も多く聞いていて楽しいものもたくさんありました。
雑談は授業に比べ生徒受けも良い、と感じていたのか耳を傾ける生徒も多かったです。
先生も話甲斐があったと思います。
先生のいつもの思い出話の中で
「昔、授業をしていたら突然生徒が泡吹いて倒れたことがあった。自分は慌てたが他の生徒が、大丈夫だよ、そいつそのうち普通に戻るから、といいやがった。そしたら本当に普通に戻って何事もなかったように授業を受け始めた。あれはすごいびっくりした。目玉飛び出そうだった。てんかん、って言うらしいんだか、あれは今は差別用語なのか?頭の病気なのか?あの怖い光景は忘れられないぞな。」
その話はお茶の水の18番だったのか相当インパクトがあったのか、ハタマタ生徒の聞く姿勢が違うと感じたのか何度も話してきました。
私はうつむいてその話の都度、気圧の高いところで耳抜きをするような感じで小さな声でアーアー、と言いバレないように聞こえないよう努力していました。
病気を知っていた友人たちが私のことを気にしてくれて授業終了後、職員室へ行き担任に怒りの抗議をしてくれました。
担任も看護師だったので怒り爆発、お茶の水に大抗議をしてくれたようです。
そして私を慰めてくれました。
「大丈夫よ、もう絶対言わせないからっ」
すごく泣いた記憶があります。
その後、お茶の水が病気の話をすることはなくなりましたが、最後に
「この前お前たちの担任に叱られたが病気の話は良くないんだな、俺はあの泡吹いて倒れた話は、怖い光景だけど良くあるからお前らも慌てるなって言いたかっただけなんだけどな」
と言っていました。
病気を知っている友達が授業の度お茶の水を睨みつけていました。
怖い光景、という表現が悲しかったです。
お茶の水は本当はどういう気持ちで言ったのかわかりませんが、当時17歳の私は傷ついていて、でも親にも言うのもなんとなく悪いなと思い苦悩していたことは確かでした。
たわいも無いオシャベリの中で
高校生活は毎日楽しく過ごしていました。
休み時間はおしゃべりと化粧、誰かの席に集まって賑やかにしていました。
大好きな時間で終業チャイムが待ちどうしかったのを覚えています。
チャイムと同時に集まってみんなでたわいも無い話をしているときに1人の友達がふと、
「それはキチガチてんかんがすることだよっ」
と言いました。
目が丸くなり、動けなくなったのを覚えています。
彼女は私が病気のことを知りませんでした。
知らないでキチガチ、とてんかんを結びつけたのです。
女子校なので言葉も行動もすごく下品でした。それを楽しんでいました。
でも病気をバカにするようなことはみんな言いませんでした。
彼女の地元はうちよりもずっと田舎で
と親から聞いていたそうです。
育った環境や培ってきたものは否定するのはなかなか難しいものです。
その場は始業のチャイムが鳴って流れましたが私はしばらく彼女と口がきけなくなりました。
きっと向こうは私が怒っている理由はわからなかったでしょう。
私の病気を知っていた友達がフォローしてくれていつの間にか元通り仲良くなっていきましたがあのときの気持ちは忘れられません。
看護師となりバリバリ働いていて未だ、私がてんかんのことは知らない彼女。
今はてんかんについてどういう認識なのかな。
会ったら聞いてみたいけど、今更かな。
私の両親と姉妹
ここまで書いていて、うちの両親は厳しくなかったのか?と疑問を抱いてしまいます。
私もこれが他者のブログなら「親は何したんだ!」と突っ込んでしまいます。
そんなことはなく我が家はルールがあり周りと比べて厳しい家でした。門限もありそれをいつも鬱陶しく感じていました。
三姉妹の真ん中の私はいつも反抗していて姉と妹とは違う、という勝手な競争心がありました。
姉や妹は学生の本分は勉強、といった真面目一直線タイプでした。
そんな姉妹がイヤで、不良の友達と一緒にいるときに電車で見かけると知らないふりをしてしまったこともあります。
今では大好きで頼りにしている存在なのに昔の私は本当に薄っぺらいです。
医療従事者の両親はいつも優しくそして厳しく「よそはよそ、うちはうち」というスタンスで居てくれました。
反抗的な私は自分をいかに悲劇的にみせ同情を引き、友達と勉強、といって彼や男友達の家に泊まったりしていました。
そうさせることが成長段階のうちで必要なんだと母を説得するのが上手かったと思います。
サザエさんのカツオみたいと言われたこともありました。
でも基本は真面目で気弱なのでどこか後ろめたい気持ちは常にありました。
校則の厳しかった高校だったので、髪を染めているわ携帯を持っている、などと何度も母が呼び出しをされました。
みんなしていることなのに私はウソを突き通せず結果周りに迷惑をかけまくってしまっていました。
病気に関しては母は『てんかん』についてあまり知識はなかったようです。
医者からも特別扱いはせず普段通りでよいと言われていました。
ただ脳の病気だけど珍しいものではなく内服治療さえきちんとしていれば大丈夫、くらいだったと思います。
父はだいぶ解っていたようですが、私には病気について殆ど話してきませんでした。
ちゃんと寝なきゃダメだぞ、とかその程度でした。
我が家は母はデリカシーがあまりなく、良くも悪くも大らかでした。
いつもキラキラ笑顔で綺麗で自慢の母でした。
父は繊細でロマンチストでユーモアに溢れていました。
頭の回転が恐ろしいほどに早くいつまでも若い感性を持とうと母と月に2.3回は映画観賞をするしお笑いにも詳しいです。でもものすごく厳しくて怖い存在でした。
発作のことを詳しく教えてくれる母とは対照的に父は、「ちょっと倒れる程度だよ。頭打たないように気をつけないといけないから前兆があればいいのにな。」と言っていました。
病気の説明は受けていた様な気もしますが私もそんな重く受け止めていませんでした。
もしかしたら、私が傷つくかもしれない、と気遣っていてくれていたのかもしれません。
父と母で病気に関する温度差があるのは土地柄だったのかもしれないと最近気づきました。
母は転勤族育ち、父は田舎の地元に根付いて育っているのでそのようなズレが出てもしょうがないのかな、と大人の今となっては理解することは出来ます。
2回目?の発作
高校生活が始まり、自分が病気のことはほとんど忘れていました。女子校でみんな中学の頃から看護師になりたい、と同じ志しを持った仲間。優しく団結力もあったように思います。お調子者でムードメーカーだった私はどのグループともすぐに仲良くなれていたような気がします。
病気のことは一部の友達には話していました。
当時は朝、昼、夕と『デパケン』を服用していました。今ではデパケンRという持続性のある吸水性のないものですが当時はデパケンが主流でした。
高校のカバンにシートで持ち歩いていたデパケン。何度もカバンの奥で水分を吸ってフニャフニャになっていました。
昼食の際ご飯飲み忘れそうになったとき、友達が声をかけてくれたことも多々あります。
周りに恵まれていたな、と改めて感謝です。
17歳で初めてのバイトをしました。薬の飲み忘れもチラホラありました。
夜まで遊んで夏休みは昼夜逆転生活でした。
高校2年の夏休み明けでした。
バイトに行って夜はバイト仲間の大学生の家に泊まることもありました。
頭痛がひどいと思ったこともありましたが楽しい雰囲気を壊したくなかったので言いませんでした。
家に帰ってから夜、学校の用意をしているところまでは覚えています。
母が心配そうに私を抱えていました。
私「あれ?どうしたの?」
母「…てんちゃん、また発作起きたんだよ。大丈夫?」
私「あたまいたい〜!」
次の日は学校を休みました。
少しの熱では休ませてもらえなかったので休めるなんてラッキー!と安易に考えてひどい頭痛のままベッドでぬくぬく寝ていました。
てんかんという診断
入院中、医師からてんかんという病気です。と言われました。脳の病気です、と。
でも中学を卒業したばかりの私はてんかんなんて病名知りませんでした。
けど人とは違うんだ、という変な特別感を持ってしまいお見舞いに来る友達にてんかんっていうらしいよ〜と報告しまくっていました。
当時の彼にも伝えていました。それはそれは心配してくれました。まだ何も分かっていない子供同士でした。
何となく、あまり人に言わないほうがいいのかもしれない、と思い始めたのはいつだったか思い出せませんが祖母のことが気になっていました。
救急車で運ばれたとき、なんで近所の目を気にしたのかなって。
あと、父が私の病名を祖母に話さないでいる事にも違和感を感じていました。
それで、祖母にそれとなく自分の病気のことを話してみたら顔色を変えて
「それは誰に言われたんだ?人には言っちゃダメなんだよ」と言われました。
高校では衛生看護科を専攻していました。
高校のうちに准看護師の勉強をし、資格習得を目指す学科です。
教科書をもらい真っ先に見たのはやはり『てんかん』。
脳神経の教材でなかなか見つけられません。
そして開いた精神科。ありました。あることに衝撃を受けました。
脳神経じゃないの…?
特別感から疎外感に変わりやっぱり人に話さないほうがいいのかもしれない、と思った瞬間でもありました。
初めての入院
病院に着いて少しずつ意識が戻ってきた私は自分が血だらけのことに気付きました。
右手の小指の肉がえぐれてその傷からの出血がひどく袖から下半身まで血液で汚れていたのです。
不思議と痛みは感じませんでした。
それよりも病院に入院するっ!私、怪我したっ!という非日常の特別感で興奮していました。
「発作のあとだから麻酔なしで縫おう」と医師が言っていた様な気がします。
病室に移り落ち着いてから携帯で友達にメールをしまくりました。
『私、指が取れちゃって入院したの、お見舞い来てね』と。
何でそんなことをしてしまったのか…もう本当に恥ずかしい限りです。メールが届いた友達も戸惑っただろうな。
それも側頭葉てんかんにまつわる精神症状だったのか。。私の性格なのか。。
今となっては、です。
一通り医師から説明を受けた母は疲れている様に見えました。
でも私は興奮しっぱなしでずっと話していたような気がします。母に
「おてんこ、救急隊員のお兄さんに、後藤さん〜って言って抱き付いてたんだよ。」
と言われました。
全く記憶にありません。
それに後藤さんなんて知り合い居ません。
思い出そうとすると、不思議な恐怖感があり思い出したくなくなります。例えられない感覚です。
後々わかったのは後藤さんは私が当時はまっていたドラマ、スイート・シーズンの椎名桔平さんの役名でした。
発作の直前まで観ていたものでした。